第10号 2008年4月30日

目次
創作
「しねまど長屋」東 賢次郎
「青梅花火」凪沢 了
「仔猫」瀧澤 清
「標本箱」和田 作郎
「空の話」辻 章
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(七)」井口 時男
断想・断章 
「人はまだまだ出来る!」
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井上ひさし著『ボローニャ紀行』
    に教えられたこといろいろ

       桐原 良光
「雪の下で9」三木 卓 
文芸展望塔 
「「私語」の世代」
    かきびとしらず
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(十)」辻 章

A5判、本文94頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎武田泰淳の『蝮のすえ』は「生きて行くことは案外むずかしくないのかもしれない」という、良く知られた一行ではじまっている。それはむろん太平洋戦争下の、「生の困難」という常態(常識)を背景として、ある意想外の発見の、驚きとしての言葉、であっただろう。そしてこの小説は、「死の絶えざる現前」という状況の下でこそ、かえってはじめて可能であった「生の発見」の表現にほかならない。

◎死、それ自体はむろん、戦時下と何ら変わることなく、現在、われわれの前に遍在している。戦争。テロ。病い。事故。──われわれの生が常に死者と共にあることに何の変わりはないのだ。

◎そんなことを想い起こさせた一つのキッカケは、わたしがたまたま最近の新聞に、新型ウイルス(鳥インフルエンザ)の記事を見出したからである。この、現在、最悪と思われるウイルスは、人類の生存に壊滅的打撃を与える可能性を言われている。われわれの生はこうやって事実、間断なく訪れようとする、死と共にあるのだ。

◎しかし、武田の描いた戦時と現在とは、ある根本のところで違っている。それは一言で言って今、死は「できる限り現存ではないように取り扱われている」、つまり「隠蔽されている」ということだろう。現在、死は、まちがっても「常識」に属することのないように、慎重に管理されているのだ(科学という名の政治、その他の方策によって)。

◎現在の(文芸ジャーナリズムの領域の)文学の衰弱、その最も核に潜む病因は、まさにこの「死の隠蔽」にあるのではないかと、わたしは考えないわけにはいかない。「生きることの発見」は、実は、生が滅亡するものであるという常識、その体得によってこそ、もたらされるものだからである。そうして無論、あらゆる思想も哲学も芸術表現も、この「生きることの発見」に基づいてこそ、その全力を発生させることができるのである。パスカルの葦。キルケゴールの不安──「心臓の恐ろしさ」。あるいはトロツキーの「永久革命」(常に転形するものとしての革命)──それらはすべて、「死すべきものとしての人間」という常識の正視によってはじめて可能な「生の発見」だった。

◎「死の隠蔽」によって立ち現れる現象の一つは、表皮的な(表層のみに関する)「暴力」である。根拠の定かでない暴力、あるいは、根拠が定かでないという根拠しか持たない暴力の「小説的」表現は、たとえばポスト・モダンとか、ポスト・ポスト・モダンとか命名されて、ジャーナリズムに蔓延している。(そのことへの鮮やかな解析をわれわれは、たとえば井口時男の労作『暴力的な現在』によって得ることができる。)

◎ポスト・モダン風言説の唱えるような、──今や、根拠がないということほど生そのものなのであり、そういう風に描くことこそ文学表現というものだ──などというのは、現象を(想像力の)実体とカン違いした妄説に過ぎない。それは根源的には、「生によって解釈された死」を、「死」そのものとカン違いしたことによって生じた妄説なのである。

◎現在、「死」は、ある「非常識」の領域に、(いつの間にか、暗黙のうちに)密閉されている。「死」について語ること、それ自体が一つの『非常識』であるかのように。
 しかし、われわれが見るべきなのは、常に、『常識』としての死であって、その視角からこそ、はじめて『生』は「生そのもの」として、等身大の生として浮かびあがるであろう。──「生きていく事は案外むずかしくないのかも知れない」のである。(ただ、妄想を、妄想として気付きさえすれば。)
 そうして文学の、表現の力は、実はそこからしか生まれない。

◎本誌の編集の態度は、ただ、妄想の排除と常識の絶えざる発見にあるのである。
              (辻章)