第11号 2008年7月31日

目次
創作
「枇杷」庵原 高子
「刑ム所」東 賢次郎
「迷い道」瀧澤 清
「旅」和田 作郎
「訪問者」辻 章
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(八)」井口 時男
断想・断章 
「雪の下で10」三木 卓 
文芸展望塔 
「資本主義は前途洋々か」
    かきびとしらず
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(十一)」辻 章

A5判、本文89頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎二十年余り前、「書くことが何もないことから出発せよ」というようなことがしきりに言われた。それは本来は──今までのような(近代文学的)書き方、観方では何も書くことはできない──という意味で言われたのだが、こういう「スローガン」の御多分に漏れず、たちまち形骸化(マニュアル化)して、文芸ジャーナリズム誌上は、今や内容の陳腐とモチーフの空疎の「高度さ」を競い合っていると見まごうばかりの、一奇観を呈している有様である。
 文学は「ポストモダン的」だの何だのとハヤリや御題目で出来るものではない。書くことがないのなら書かねば良い──それだけの話なのだ。
◎種々雑多な「トレンド」や「スローガン」はわれわれの周りにいつも氾濫している。それは「文学の混迷」や「行き詰まり」というような言葉が、文芸関係者には常に氾濫しているのと同様である。
◎種々雑多な「トレンド」や「スローガン」はわれわれの周りにいつも氾濫している。それは「文学の混迷」や「行き詰まり」というような言葉が、文芸関係者間には常に氾濫しているのと同様である。そして、そういう言説郡の中で、人は、「どういう風に書くのか」についていくらでも喋々することができる。
◎しかし「どう書くのか」「如何にすれは小説は可能か」という問いに打ち当たった時、われわれが常に立ち戻らなければならないのは、実は「なぜ書くのか」という一見素朴きわまる,原初そのものの地点であろう。そして、商業文芸が文字通り「昏迷」を極めていると見える今日まさにこの「なぜ」こそが問われているのである。
◎こういうことを改めて考えたのは、井口時男「少年殺人者考」の今号を読んだためでもある。「秋葉原無差別殺傷事件」は、一人の青年が、「どういう風に生きて行くのか」という時を突き抜け、置き去りにするようにして、「なぜ生きているのか」という問いを一つの象徴の匕首として、われわれに突きつけたのではないだろうか。すぐれて「今日的」な彼の「動機」(「なぜ」)こそを、われわれは一つの「文学の問い」として問わなければならないだろう。
◎今号の小説、評論、エッセイを通読して、(余りにも当たり前のことだが)そこに私は「私」というものの複雑怪奇、或いは玄妙を、殊更のように感じた。「私」が常に(宿命的に)単独のものとして世界に向かい合っているものである限り、そこにまた宿命のように文学(表現)は生み落とされてくるのである。
               (辻章)