第12号 2008年10月31日

目次
創作
「あくあまりん」麻田 圭子
「青虫」和田 ゆりえ
「レフトオーバー・スクラップ」
          東 賢次郎
「紅葉」瀧澤 清
「耶蘇坊主」和田 作郎
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(九)」井口 時男
断想・断章 
「雪の下で11」三木 卓 
文芸展望塔 
「三題噺」かきびとしらず
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(十二)」辻 章

A5判、本文101頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎今号の「あくあまりん」麻田圭子、「青虫」和田ゆりえ、は本誌初掲載の作家である。新しい書き手、そして新しい作風は、文芸雑誌という文学の運動体にとって、最も重要な血液の一つであることは、言うまでもない。「ふぉとん」は新しい作家と作品を、常に門徒を解放して待望している。
◎創作とはむろん、常に一つの「発見」である。発見だけが、真に「創作」(「創造」)の名に価する作品を生み出すことが出来る。──そんなことは当たり前だ、という声があるかもしれない。しかし、発見によらず、ただ単に既成の知識や方法を「学んで」(寄せ集めて)拵え上げた「作品」、つまり「発明品」が、実は文芸ジャーナリズムに大いに流通していることも事実なのである。
◎「発見」とは何か。それは、「コロンブスの卵」であり、「地動説」である。卵は予め、立つもの、だったのではない。それはコロンブスの発見によって、はじめて立ったのである。地球は予め、太陽のまわりを回っていたのではない。それはガリレオの発見によってはじめて「回っている」のである。そしてむろん、その逆もまた常に一つの「発見」であり得るのだ。
◎こんなことを考えたのは、今号の小説を次々に読みながら、わたしがそこに通底するモチーフ=「幻想」を感じたからにほかならない。

 小説五作は、いずれも予め所謂「幻想小説」を企図して書かれたものではない。むしろ、それらは何よりも「現実」の細部、あれやこれやからこそ出発していると思われる。「あくあまりん」の温泉宿、そこでの男女のやりとり。「青虫」の、青虫の成長と母の老化。「レフトオーバー・スクラップ」の入れ子状の夢、そのもの。そして「紅葉」の、燃え盛るような紅葉。「耶蘇坊主」の主人公の降り立つ土地「松穂町」。
 それらはいずれも具体的で、具象的な、所謂「現実的」な事柄である。
 しかし読み進むうち、読者はその作品が、温泉宿や青虫や夢や、そして紅葉や松穂町から離れて、何か、そういう予めの言葉の(イメージ)ではないものの中に入っていくことを感ずるのではないだろうか。
 わたしたちにとって、それらは、「(形を持たぬ)水」であり、「(彼岸・此岸の)反転」であり、「(突然、放り出された)異界」であった。そして同時に、そういう言葉はついに表現できない、つまり一つの形を持たぬ「世界」だった。
◎「現実」は、想われる(イメージされる)ことによって、どのようにも姿を変える。それは、イメージする人間の内部で姿を変えるのであるし、「現実」そのものが変わって行くのでもあろう。──つまり、逆に言えば、予め定まった「現実」などというものはない。われわれは常に「現実」を創り出しているのである。創作に於いて、われわれは、現実を描出するのではない。現実を創出しているのである。そして、そういう意味で言うならば、小説の創作が、常に「幻想」の領域に向かおうとするのは、必然の力学と言うべきであろう。「幻想」は、「現実」に対比して考えられるべきものではない。われわれは幻想の中でこそ、「その現実」を真に発見し、描出することができるのであるから。逆説的な言い方をすれば、現実を予め現実とみなすことこそ、(最も安易な)「幻想」なのである。
◎創作(想像力)に於いてはすべてが許されている。そしてそれは、創作が、一切の(「現実的」)弁明を許されていない、ということを、むろん、意味しているのだ。
◎今号、十二号で「ふぉとん」は満三年となった。一号の遅れも休刊もなく文芸誌活動を展開できたことに、読者、支援者、執筆者の方々に心より感謝申し上げます。
               (辻章)