第2号 2006年4月25日

目次
特集1 最初の言葉─文韻・詩文集
「意志の螺旋」小川由香
「雨/ぱあく/櫻花」辻章
「最初の叙景的精神」かきびとしらず
「もしもそれが……」凪沢 了
「父」本多順子
「毋逝きし」松本道子
断想・断章 
「人を殺す少年たちの言葉」井口時男
「鳴海要吉のことなど」前田速夫
「雪の下で」三木 卓
特集2 虚構の発見─短篇創作集 
「鍋の底」瀧澤 清
「失跡」辻章
「挨拶」かきびとしらず
「人はみな詩人の方へ」東賢次郎
「正浄備」和田作郎
作品論 詩人の肖像 
「阿部昭「人生の一日」私論」凪沢 了
翻訳 
「ごあいさつ」S・マラルメ 小野 茜・出口冶章訳
「一日のたったの終わり」D・Sガリポン  小野 茜・出口冶章訳
「反歌」辻章
散文歌 
「鰻」本多順子
創作 
「星塵物語あめのほしくずのはなし」かきびとしらず
文芸展望塔 
「作家の精神」 かきびとしらず
創作 (連續掲載) 
「郷愁祭」
無限物語(二)」辻章

A5判、本文124頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎今号は二つの特集を組んだ。
 一つは「最初の言葉」である。所謂「詩歌」の特集であるが、「最初の言葉」としたのは、良くも悪しくも定着化し習慣化した「詩」というイメージ、かたちを超えて(或いは遡って)、詩そのものの発露に触れかかり、再発見を試みたいという動機からである。文学表現の中央点に常に「詩」があることは自明であろう。しかし、ともすれば忘却されるその「自明」の発見のためにこそ「予めの詩」ではなく、「源流の源流」としての「最初の言葉」を探究しようとするものである。嬰児の呱呱に拮抗し得る言葉は、はたして可能であろうか? 
 特集2は、散文による虚構の力、その可能性の提示としての「短篇創作集」である。「何でも入る容器」としての小説。しかしそれがどんな万華鏡を許そうとも、中心の動力は無論「虚構への衝動」であろう。その衝動の、原初の姿を探索しようとするものである。作品と読者との間の、直流的交感を何よりも期待している。
    *
 歯が痛い、歯が痛い──この歯痛も治せなくて何がブンメーだ、何がゲンシバクダンダ! という主旨の坂口安吾の言葉が(文言は定かでないまま)、時々、頭を掠める。文明とは何か? それは進歩の運動の成果、或いは「進歩」それ自体であろう。
 作品評価に常につきまとうものの一つに「新しい」「古い」がある。新=善、古=悪。──進化、進歩を尺度とした評価であろう。しかし無論、新しいもの(方法、書法)がより強い、より高い文学性を持ち、古いものがその反対、というようなことは成立しない。作品創造は文明(の進歩)とは本質的に無縁なのである。ジャーナリズム的価値観の根底は「進歩」である。時に「この作品は現状(社会)に対応しきれていない(遅れている)」ということさえ、評価基準とされる。
 しかし、たとえば夏目漱石は──隣村との間を山がふさいでいたら、西欧人は何とかしてトンネルを開けようする。東洋人は自分の村でどうにかやって行こうとする、という意味のことを書いた。東洋人、西欧人がそれぞれの聲を持ち、その表現として文芸の作品があることは、言うまでもない。そして「聲」は本来、時間、空間の差別を持たない(逆に言えば、差別を持たないものこそが真正の「聲」)のである。    (辻章)