第4号 2006年10月25日

目次
創作 
「雨」外村直樹
「赤子の中から」東賢次郎
「視線」瀧澤 清
論評 
「物語に取り憑かれた者たち」月永理絵
断想・断章 
「デジャヴュ蕩揺の文体」小林広一
「きだみのる覚え」前田速夫
「雪の下で3」三木 卓
散文歌 
「だまし絵
(一)」本多順子
文芸展望塔 
「こころざし」かきびとしらず
連載 評論 
「少年殺人者考
(二)」井口時男
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 無限物語(四)」辻 章

A5判、本文106頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎「文藝・冬季号」の高橋源一郎・保坂和志対談をたまたま読みはじめたのだが、途中でやめてしまった。何だか妙な感じがしたのである。それは昔、学校のセンセイから作文の書き方を聞いていた時の、あの何とも言えず居心地悪く、ムズ痒い感じと、良く似ている。この対話には「なぜ『小説』なのか」という問いが限りなく希薄で、代りに満ち満ちているのは「どうやったら『小説家』になれるのか」或いは「『小説家』でいつづけられるのか」という問いだ。
 小説業者たちの、何という臆面のない、何というのどかなオシャベリ!
 一言、箴言を呈しておく。
 「人はある瞬間に小説家になることはできるが、それは小説家であることとは何の関係も持っていない」
 小説で生計を立てるためには? という問いは無論、「小説」とは無関係なのである。

◎「なぜ小説(=創作)なのか」という問い。それは突き詰めれば結局、人間の「生死」への問いとなるだろう。
 今号、外村直樹の「雨」は百数十枚の力篇だが、臨死の、生との関係が切れる寸前の人間の眼から見た「この世」の光景を執拗に追うことによって、それがかえって「生の切実」を痛切に感触させることを、私は非常に興味深いことに思った。東賢次郎「赤子の中で」、瀧澤清「視線」の二篇もまた、「生」の原初から発せられた、「生とは何か」という問いこそが発露させた声なのである。

◎今号、「ふぉとん」は創刊一周年を迎えることができた。「産業」ではない、「商業」ではない文芸雑誌として、畏敬と愉楽という文学の本道を歩んでいると自負している。そして、それは同じ思いを共有する方々の、有形無形の力によって支えられてこそのものであったことに、深く感謝申しあげる。
                        (E章)