第5号 2007年1月25日

目次
創作 
「福生幻想」凪沢 了
「占領軍の夜」東賢次郎
「犬のいる屋敷」川名敏春
「燃える日」辻 章
断想・断章
「読み書きアクタイ」辻 章
「雪の下で4」三木 卓

「月歯類ほか」村野美優
短歌
「風花」若林のぶ
散文歌
「だまし絵
(二)」本多順子
文芸展望塔 
「やがて哀しき」かきびとしらず
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(三)」井口時男
創作(連続掲載) 
「郷愁祭
(五)」辻 章

A5判、本文92頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎今号の創作四篇──凪沢了「福生幻想」、東賢次郎「占領軍の夜」、川名敏春「犬のいる屋敷」、そして拙作「燃える日」が、期せずしてその通奏底音としているものは、幻想、あるいは、夢である。これは意図したことでは、むろんなく、文字通り「期せずして」なのだが、私はこのことを今、改めて興味深く思いながら、この後記を書いている。つまり、書く、という自己の意識化(それが文学表現である)が、ある必然として、幻想、夢、の色彩を帯びることを、眼の前に見る思いがするのである。
 「現実」を(あるいは「現実」への私の意識を)捕え、描写しようとすると、必然のようにその「現実」は遠のき、代って幻想と夢とが、「私の現実」として登場して来る──。
 今日、私たちの世界に於ては、現実が幻想として、いや、幻想こそが現実としてしか、存在し得ないのかもしれない。そしてこのことは、井口時男「少年殺人者考」で指摘される李珍宇の、「私が私を見ている」心象、──「二重の私」の心象とも深く連結する事柄であろう。

◎高度化した資本主義は、既にそれ自体によって資本主義を延命(維持、再生)させて行く力を持った、という説がある。たとえば吉本隆明などによって唱えられているこの説は、歴史上、ある体制が自身を弁明し正当化する際の常套的台詞であって、特に珍らしいものではない。それは危機の予感(前兆)への自己弁明として、自己肯定として、常に持ち出される論法である。そして、この論法の例証として逸早く挙げられたのが、村上春樹や、高橋源一郎であったのは、まだ記憶に新しい。彼らの表現から、自己否定の観念・方法がすっぽりと抜け落ちているのは、そういう意味で必然である。それは吉本説と同様、時代と体制への予めの肯定、という心象をサポートするものとして生み出されたものであるから。

◎この問題は、今日の商業文芸ジャーナリズムのありようとも深く関わっていることであろう。改めて考察の機会を持ちたいと考えている。
                        (E章)