第6号 2007年4月25日

目次
創作
連作・水「離れ/墓を訪ねる」和田作郎
「その事件」瀧澤清
「エトセトラ」東賢次郎
「ゴミを捨てる」凪沢了
「空の計量器」辻章
断想・断章
「マイケル・チミノはなぜハリウッドから拒絶されたのか」月永理絵
「雪の下で5」三木卓
短歌 
「春逝く」入江曜子
「八十路」松本道子
文芸展望塔 
「若い諸君!」かきびとしらず
評論(連續掲載)
「少年殺人者考(四)」井口時男
創作(連続掲載) 
「郷愁祭無限物語
(六)」辻章

A5判、本文97頁 発行:ふぉとん社
編集後記
 校了間近の夜、今号のゲラを通読しながら、私はしきりに「差異」(差別)ということを考えていた。
 小説の表現(文学表現一般)とは、つまり「言葉」である。そして「言葉」こそは、無論、「差異化」の確かな、唯一の、源泉なのである。
 改めて私がそんなことを思ったのは、今号の創作作品の、その焦点(或いは、消点)に私は、その作品を生み出した「差異化」の運動を読まないわけにはいかなかったからである。
 たとえば、主題だけを取り出してみても、それは、「家」、「冤罪」、「奇妙な性行為」、「徒労」、等として現れている。そしてそれらは何れも、日常的認識を逸脱、遊離して、作品自体の「認識」を、そして「特殊な」言葉を生み出している。
 「作品自体の認識」と「作品自体の特殊な言葉」、その往還の光景──それが私に、「差異化」という言葉を想い浮かべさせたのである。文学作品が、それ自体の認識と言葉を持つこと、──それは一見、常識に属することのように思われる。しかし、それはまた、実にたやすく破られる「常識」でもある。
 たとえば、大江健三郎という作家が、彼の実生活にそこはかとない手つきで重ね合わせながら、「障害を持つ私の子」と書いた時、それは「障害」という、前提としての言葉を問わないことによって(前提されているから、「障害」は「持つ」ことができる)、つまり「障害」という、言葉を日常的常識の手にそっと委ねることによって、「作品自体の認識とその言葉」を、一気に放棄しているのである。  「障害」という言葉への、書き手としての認識。それへの自己否定的検証の不在である。
 しかし、これは特に大江健三郎だけのことではない。それどころか、多くの作家の、職業作家としての成功の秘密は、この放棄と不在とによるとも、言えるであろう。
 中上健次は、「被差別とは何か」を、自己否定(自己差異化)として問いつづけた、と私は考えているが、(たとえば「差別を負った私」という風な言葉を、彼は使うことがなかった)それが、中上をついに「職業的」成功には導かなかった主因なのでもあろう。
 しかし、そんなことはまあ、どうでも良い。
 「特殊な」言葉と認識、それだけが創作の、最初で、最後の源泉であるということ。
 このことを、私は今回も、井口時男「少年殺人者考」によって摘出された、死刑囚李珍宇の認識と言葉によって、鮮やかに知らされたのである。                        (E章)