第7号 2007年7月25日

目次
創作詩集
「青空」辻章
「エレベーターズ」東賢次郎
「比婆山」川名敏春
連作・強羅「岩谷」瀧澤清
「家暦」和田作郎
断想・断章 
「雪の下で6」三木卓
短歌 
「鎌倉」本多順子
文芸展望塔 
「ヒトゴトは大事」かきびとしらず
評論(連續掲載)
「少年殺人者考(五)」井口時男
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(七)」辻章

A5判、本文124頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎文学とは── 一般に芸術表現とは、ついに、その表現者の眼に映じた、この世の姿、についての報告に他ならない。狂水病患者が、なぜコップ一杯の水に、狂うほど怯えるのか、を例として、萩原朔太郎は、その、余人には到底想像すらつかない恐怖の世界を伝えるもの、それが詩だ、と言った。
 なぜ怖いのか、それを言うのは簡単だ。しかし、いかに怖いか、を言うのは、芸術表現以外の方途はないのである。
 「小説らしさ」という言葉がある。「文学的」という言葉がある。
 しかし、そんな「らしさ」や「的」は、本当は、何の意味も、持たない。徹底的に、詳細に、この眼に映るこの世の有様を、徹底的に、ありのままに描くこと、それを、ひょっとすると、他人が「文学」と呼ぶかもしれない、ということがあるだけなのである。英国では犬はバウ・ワウと鳴き、日本ではワンワンと鳴く。彼地では、鶏はクックドゥドゥルドゥーと鳴き、日本では、コケッコッコーと鳴き、そして、朔太郎には、とおてくう、とおるもお、と鳴いたのである。「小説らしい書き方」などは、どこにもない。

◎今号は、創作特集を編んだ。それぞれの書き手に、この世が一体どう映じているのか。そういう視点から、是非、一作ごとの差異と深度とを読み透して頂きたい。読者の「良い作品」「悪い作品」という、その読み方の中にもまた、鶏を常に、コケコッコーと鳴く(鳴くべき)ものという観念が、潜んでいるかもしれないのである。

◎私たちは、同時代の表現者の中に、「この世とはいかなるものなのか」についての、いくつかの徹底した報告を持っている。先日亡くなった大庭みな子の「寂兮寥兮」は、その一篇であろう。この視点、この眼によって、この世は、ありのままに発見されたのである。

◎商業文芸雑誌「文學界」七月号が「おじさんは『綿谷・青山・金原』をどう読んだか」という恐ろしく劣等な座談会を掲載している。「おじさん」と呼ばれて、無邪気にニコニコ出て来たのは、加藤典洋、関川夏央、船曳建夫。
 ここに取り上げるべき程度のものでは、到底ないが、商業文芸ジャーナリズムの現状の一例として一言しておく。
 内容をとやかく言っても仕方がない。とにかく致命的なのは、これが初めから終わりまで、所謂(月並の)「世代論」(「おじさん」対「若い女性の書き手」)に覆われ、「批評家」三人の誰一人、そういう月並言説への疑義どころか保留すらしていないことである。お題がそうだからという言い訳もあるだろうが、そもそも、呼んだ方の注文通りにアイ勤めるならば、それは、解説屋とか、コメンテイターの仕事であり、テレビコメント大活躍のテリー伊藤か、東京都ジャーナリスト副知事、猪瀬直樹に任せておけば良い。いや、彼らの方が、よっぽどマシなことを言うに決まっているのだ。
 「若い女性書き手現象」への、週刊誌コメント並みの記事が、十頁余りも費やして、堂々と、一応、「文芸雑誌」を名乗る雑誌に掲載されること。現状の、「氷山の一角」なのであろう。
 忠告。
 批評とは、対象を徹底して対象し抜くことであって、説明したり、ましてや「応援」したりケチをつけたりすることではない。これ、基本中の基本である。

◎綿谷りさは、自作「夢を与える」について、しきりに「ベタ」ということにこだわった、とか「ベタ」なものにしたかった、とかいう風なことを言っているようである。
 何にこだわるのか、それは、それこそ表現者の徹底性の問題であって、余人のとやかく言うべきことでは、決してない。しかしこと「夢を与える」に関して言えば、これはただ「ベタ」の濁点は余分、としか言いようがないものである。
              (辻章)