第8号 2007年10月25日

目次
創作
「金の亀」周 和平
「郵便車ジャック」東賢次郎
「雨」瀧澤 清
「生物」辻 章
文芸展望塔 
「ミンミンゼミと、芸なし文芸と」
         かきびとしらず
断想・断章 
「李良枝の文学と出会って」
 中村=メーフェッセル・ベレーナ
「戦争について
  
『夕凪の街 桜の国』と
    『麦の穂をゆらす風』
      の間にあるもの

         千葉一幹
「雪の下で7」三木 卓
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(八)」辻章

A5判、本文82頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎本号(八号)で、本誌は満二年となる。二年という時間は、行く先がぼんやりと見え出し、かつ軽く振り返りたくなる時点でもある。毎号、旗幟を鮮やかに、次号 はそれを否定的媒介として、という文学運動の方法論を、三年目からも更に積極的に展開してゆきたい。

◎毎号寄せられる会員、読者の感想、批評は千金の励ましです。一通一通に御返事が 書けないことのお詫びと共に、深く感謝をいたします。

◎周和平「金の亀」を読んで、私は「説話」(アレゴリー)の力を改めて知らされた(豊島与志雄の「近代説話」、それへの花田清輝の熱い称揚についても、改めて 思い起した)。  「説話」について、ここに詳述するいとまはないが、創作者の世界観、思想を表現する方法としての説話は(むろん「傾向小説」とは全く次元の異なるものとして )、シニカルで、没理想主義的な「ニュートラリズム」を無意識の前提とする商業ジャーナリズムの中にあって、一層その意味が際立つのである。「金の亀」の持つ鮮や かなイメージの力は、説話が本来的に持つ「主張」の力がもたらすものでもあろう。

◎大庭利雄「不可解なみな子の遺書」(「群像」十一月号)は、単に大庭文学にとどまらず、生と文学──死の前で文学は可能かという、最も根源的、永遠的な問い にとって、きわめて重要な示唆に富んだものである。それは、永遠の文学は可能か、という問いにつながる。
 これについては、別の機会に考察してみたい。大庭みな子は世界としての「寂兮寥兮」を生きたのである。
              (辻章)