第9号 2008年1月31日

目次
創作
「眠り猫」東 賢次郎
「万青年」庵原 高子
「冬のわかれ」関 和夫
「公園」瀧澤 清
「汝れは海の子」和田作郎
 
「冬の力学
ー反自殺論序説」辻 章
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(六)」井口 時男
文芸展望塔 
「あわてる乞食と、律義な選評」
    かきびとしらず
断想・断章 
「ソウルに暮らし俳句を詠む」
    金 利恵
「雪の下で8」三木 卓 
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(九)」辻章

A5判、本文89頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎文学の虚構=創作について花田清輝は、(創作者にあっては)「夢が現実に似ているのではない。現実が夢に似ているのだ」という趣旨のことを言っている。
 現実が夢に似ている──とは、虚構者=創作者にあっては、初めに先ず「夢」があり、彼の生きている生は、その「夢」に時々似ている(場合もある)ということに他ならないだろう。「夢」こそ、彼の常住の棲処なのである。「人生」などは、ついに彼の夢の、貧弱な模造物に過ぎないのだ。
 そうして私は、このことは実は「創作者」にのみ発見される事実なのではなく、人というものの、その人生と現実の、最奥の場所に横たわる普遍の原理であろうと、思う。太宰治は──どうせ死ぬのだ。眠るような良いロマンスを一篇だけ書きたい──というようなことを言ったが、「どうせ死ぬ」のは、むろん創作者に限ったことではない。人間という「どうせ死ぬ」存在の誰でもが、その始源に於いて「夢」=眠るようなロマンスを抱いているはずなのである。

◎東賢次郎「眠り猫」は、「夢と現」との交換=入れ代わりの有様をまさに「現実のもの」として描くことによって、私に前記のような、創作の水源について想い起こさせた。眠りこそが覚醒であり、覚醒が眠りであるということは、荘子の「胡蝶の夢」の空間にも通じているのである。

◎このことは、庵原高子「万年青」についても言えるだろう。この作品の主人公は「時間」である。その「時間」が現実の時間ではなく、書き手の「虚構の時間としての目」に映じた時、創作は生み出される。

◎関和夫「冬のわかれ」は、1960年代を背景とした「青春小説」である。私はこの作品から直ちに「青春とは春ではあるが、春の闇さだ」という言葉を思い出した。作中の「冬」こそ、まさに青春が特有の「闇さ」と共にあることを暗示している。
 半世紀以前の背景が今、ある直接の心象としてわれわれに伝わって来るということは、「青春」というものが、時代などとは無関係に、人の生の不易の、一つの時刻であることを鮮やかに示しているだろう。人生は、一般に信じられるようには連続のものでは決してない。刻々に、その特有の相貌を顕すものなのである。

◎文芸ジャーナリズムでは、「小説は小説家にしかわからない」とか「評論家にこそわかる」とか言う「論争」が行われているようだ。論争は一つの「飾り」でもあるから、その経緯などには、ほとんど意味はないだろう。私はただ、そういう「論争」の中で「ポスト・モダン」という言葉が、ほとんど無前提のごとく用いられていることが気になる。現状況を「ポスト・モダン」、あるいは「ポスト・ポスト・モダン」という言葉で括ることは、一種の「常識」と化しているようだが、しかし常識とは、それが「常識化」とした時、それについて何も考えなくなるものの謂いでもあるのだ。ポスト・モダンが「一般語」となった瞬間、それは現在の状況が一体、資本主義(モダン)のどういう位相、段階にあるものなのかについての考察を、忘却させてしまうのである。
              (辻章)