読者通信




 言文一致体なる新文章をもっても文学を築くことができることを世に示した二葉亭の『浮雲』、ドストエフスキーをして「われわれは皆その中から生まれた」と言わしめたゴーゴリーの『外套』、それらは意図的・衒学的な<新意匠><新思想>としてではなく、「それが高ければ高いほど、鋭ければ鋭いほど一層、瞬時に移動する粒子」として出現したが故に「最も遠く、最も深いエコー」となって現在もなお響きわたっているのであろう。
 綜合文芸誌「ふぉとん」という坩堝から、現代の『浮雲』『外套』が現れることを期待します。
                  (オールド・ブラック・ジョー)

 なにが始まったのか、と手にとって瞬間思った。長く辻先生を知っているものとして、気軽に「創刊おめでとう!」とはいえない何かが伝わってきた。
テストの結果を上の娘が誇らしげに見せる。「98点!」。下の息子は隠して見せない。かばんの底に丸めてあった。「35点」。彼曰く、文章問題の問いのイミがわからなかったと。
傍線の「それ」は何をさすでしょう? 設問の最初にあった「それ」にひっかかってずっと立ち止まってしまったらしい。考えたあげく答えを書いたら「正しく」なくて、ほかのところが手着かずになって時間切れ。まったく要領が悪いね〜、と息子をしかった。
 受験テクニック、社会の渡り方、お金のもうけ方、条件のいい相手の見つけ方、手抜きの家事のやり方…この子たちにこればかりを伝えていったいどうなってしまうだろう。朝、だれも起きていない時間にそっとキッチンに差し込む光の中で「ふぉとん」を開く。私を自分に戻してくれる「文学のモーメント」。息子に、しかったことを謝ろうと思う。
                         (六本木の母)

 「文芸雑誌」というものを、いつから気にしなくなったのだろう。それがはっきりとしないほど、自分の生活のリズムがせせこましく、同時にのんべんだらりとしてしまっていることに驚く。
 かつてそこには「何か」があった。別にものを書きたいから、とか、生活に役立つ、とかいうのではない。ただ、読まずにはいられない、読めばそこに「世界を読み解く鍵」のようなものがあると思って、むさぼるように読んだ。するとそれは癖のようなもので、「雑誌」というのはほかでもない、「言葉」を見つけるためにあるのだと思い、そこで見つけたものは何ものにも替えがたい、自分の尺度を作ってくれたのだった。そんな時期が、それほど遠くはない、すぐそこの、手が届くところにあった。
 ふと書店で手に取ったこの「ふぉとん」が、久しぶりにその感触を思い出させてくれた。号を追う毎に私の「渇き」を満たしてくれる、そんな目次をこれからも期待します。
                           (秋山肇)