第13号 2009年1月31日

目次
創作
「枯葉」周 和平
「ユー・ノウ・マイ・ネーム」
          東 賢次郎
「遠い場所」瀧澤 清
「母」辻 章
評論(連続掲載) 
「少年殺人者考
(十)」井口 時男
断想・断章 
追想 大野晋先生のこと
   
──百年のちには」大野 陽子
「ヴァンセンヌの森から」金 利恵
「雪の下で12」三木 卓 
文芸展望塔 
「言葉尻」かきびとしらず
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 
無限物語(十三)」辻 章

A5判、本文122頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎2009年1月発行の本号から、小誌は創刊4年目に入ることになる。これまでと同様、「文学とは何か」という最も根源的で、同時に最も現実的な問いに向き合うことこそを最大の力として、これからも一号一号を作り出して行くつもりである。
◎「苦悩高きが故に尊からず」。これは太宰治の一節だが、周和平(あまね かずひら)の「枯葉」を読んで、ゆくりなく、この言葉が頭に浮かんだ。「枯葉」に底流するするものは、人間の、人間としての感情への信頼である。当り前の感情──喜び、哀しみ、あるいは正義の希求、この若い、二十代の作家のペンを支えているのは、そういう、ある意味で「普通の」心根であろう。そして、それが今、稀少で、重要であることを、私はこの作品によって気づかされた。
◎私たちの近代は、一言で言うならば、疑いと苦悩の時代である。神への信を失う代償としてわたしたちはそれを手に入れたのだが(近代科学は「あらゆることを疑う」ことから出発した)、今や近代は、「疑うことそれすらをも疑う」という、疑惑の泥沼に踏み込んでいるように思われる。太宰の一節は、そういう事態への、反語的呟き、とも読める。「近代」が「グローバリズム」に足を踏み入れた今、私たちは本当は「疑いと苦悩の彼岸」をこそ、胸に希求しているのではないだろうか。
 わたしは「枯葉」の中に、それへの一つの回答──信頼、を読む。この作中の人間たちもまた、近代の物語のままに、戦争、空襲、病い、貧困等々の中に翻弄される。しかし、それを悩む、その感情は真っすぐであり、苦悩への疑いを持っていはしない。悩みを悩む、憤りを憤る──実は、それは今、稀有なことなのではないだろうか。
 私はそこに、この若い書き手の、真当の力を感ずるのである。
◎「何もかもを疑う」ことは、いつの間にか、近代の、ほとんど「信仰」と化してしまった。つまりわれわれは、「疑うことだけは疑わない」のである。
 われわれは宇宙の涯を疑って更なるその先を探し、究極の極小物質を疑って、その先の窮極を探している。そして今や、「何のために疑うのか」、「それが何になるのか」という原初の問いすらどこかに紛失して、見当たらなくなってしまっているのではなかろうか。
 何かを発見し、発明すると、われわれはほとんど反射的に、「その先は」という強迫的な疑問に捉えられているのだ。
 そうして、「疑い」という近代の信仰こそ、実は文学の衰弱の水源なのではないだろうか。「信ずることを知らない信仰」という倒錯的な観念の中に、私たちは実感を喪失したまま、生きつづけているようだ。
「信ずること」。「信ずることへの信頼」。私たちは今、その方向にこそ、私たちの視線を転換すべきなのではないだろうか。
◎図書館にいる時が、どうやら私の最も気の休まる時間の一つであるらしい。(いつの間にか、私は近隣の四つの市の、図書館カードを持つようになった)
 書架を埋める本の中では、「近代」など数ある時間の中の一つに過ぎない。原始仏教、老子、荘子、聖書……。眼前の時間も、眼前の場所も、数あるそれらの中の一つであることを、私は本の中にありありと知らされるのである。時間と場所という重力の喪失は、私の気をなによりも休めてくれる。

               (辻章)
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