第3号 2006年7月25日

目次
評論(新連続掲載) 
「少年殺人者考(一)」井口時男
創作・中篇 
「すべて少女はボートにのって」凪沢 了
創作・短篇 
「レストラン発光」東 賢次郎
創作・中篇 
「鏡ヶ浦」辻 章
断想・断章 
「魯迅の階段教室にて」佐伯一麦
断想・断章 
「雪の下で 2」三木 卓
短歌
 「独り住む」松本道子
散文歌
「王様」本多順子
文芸展望塔 
「文学ショー」かきびとしらず
創作 
「星塵物語あめのほしくずのはなし 鳳凰河/散歩路」辻 章
創作(連続掲載) 
「郷愁祭 無限物語(三)」辻 章

A5判、本文116頁 発行:ふぉとん社
編集後記
◎今号から井口時男氏による連載評論「少年殺人者考」が開始される。
 前号の〈断想・断章〉欄に於いて、井口氏は、彼らの言葉の強度に注目し、その背後にある「死」の思念を指摘した。
 今号からの連載は、その強度と思念を承けて、更に「文学の言葉」の根源そのものへと掘り進む立論と思われる。それは同時に、われわれにとって文学とは何なのか、何故、文学なのか、という問いとの応答ともなって行くと期待される。

◎一方、そういう問い掛けの対岸に今、「書くことのない場所からの出発」とか、「書きたくない(のに書くことに意味がある)」とかの言説(言いまわし)の、一部の流行がある。それらの言説への答えは、一つしかない。それは、書かない、ということである。なぜならば、文学は、徒らにソフィストケートされた「言説」ではなく、それ自身(書くこと自身)が、「行動」だからである。
 言葉(文学)の喪失の感覚を描くことは、むろん文学の行動であるが、予め感覚が喪失されていることが、文学になり得ようはずがない。それをあたかも新しい感覚のように言うのは、常識を破って見せようとする詭弁に過ぎない。
 われわれは文学(言葉)について、常に「常識」を発見して行く必要があるだろう。コロンブスの卵の発見のように。

◎創作欄には、百枚前後の中篇「すべて少女はボートにのって」、及び「鏡ヶ浦」の二篇を掲載した。
 凪沢了作品の行間から、私は「性的生きものとしての男」の歎きの声を聞いた。そして、それは同時に、「性的生きものとしての女」の歎声に重なるようにも思った。そうしてまた、作品そのものからは少し外れた想いとして、「男」も「女」も、つまりはいつまでも「少年」なのであり、「少女」なのではないか、というようなことを考えた。
 中篇二篇の同時掲載は、小誌としては初の試みである。頁数の制限の中で、これからも力篇掲載の機会を見つけて行きたい。

◎今年一月の創刊以来、各方面の方々から小誌への感想、激励、批判等を頂いた。「文芸誌」というものが、極めて見えにくい現況の下で、それらがいずれも「文芸誌」の本道、王道とは、という観点からのご意見であったことは何より嬉しく、感謝したい。

◎次号より、「読者の声」欄を新設します。小誌全体、或いは各作品への感想、文芸の現状への意見など、忌憚のない声をお送りください。
 宛先は、左記ふぉとん社(メールも可)
 多数の投稿を期待しています。                (辻章)
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