季刊・綜合文芸誌

 「ふぉとん」とは、量子論世界での、光の称び名である。量子世界で観測される光は、粒子であると同時に波であり、波であると同時に粒子である。かつまたそれは質量というものをまったく持っていない。──この一見して不可解極まる「光」の姿は、しかし実はわれわれのこの「生」とそっくり、否「生」そのものではないだろうか。
 われわれの生の、この表現は、即ちわれわれの生の叫び聲は、それが高ければ高いほど、鋭ければ鋭いほど一層、瞬間に移動する粒子となって聴き手の身体を撃ち、波動となって聴く耳に木霊を響かせるだろう。
 そしてわれわれの叫び聲は、この世の重力から解き放たれ、真偽、善悪、美醜等々、それらの質量を喪失すればするほど一層、無限の深い自由を以って、時空を瞬時に往還するだろう。
 量子が質量世界に於ける自身の喪失として顕現されるように、われわれの表現営為は,表現の喪失としてこそ、最も遠く、最も深いエコーを持つであろう。
 われわれの雑誌が「ふぉとん」と称ばれるべき所以である。

創刊号 2006年1月25日

第2号 2006年4月25日

第3号 2006年7月25日

第4号 2006年10月25日

第5号 2007年1月25日

第6号 2007年4月25日

第7号 2007年7月25日

第8号 2007年10月25日

第9号 2008年1月31日

第10号 2008年4月30日

第11号 2008年7月31日

第12号 2008年10月31日

第13号 2009年1月31日

第14号 2009年4月30日

第15号 2009年7月31日

最終特別号 2009年11月10日
季刊・綜合文芸誌「ふぉとん」の終刊について
 二〇〇六年一月に創刊された文芸誌「ふぉとん」は、本年二〇〇九年一〇月号を以って終刊する。
 なお本年の最終号、十月号は、終刊特別号とする。
 われわれの雑誌創刊の所以を確認しておくために、創刊号の編集後記を、ここに再録する。

◎約半世紀前、ある文芸思想家は、ある文芸流派を指して──観念の崩壊によって現れたものであって崩壊を捕らえたものではない……それは文学の衰弱によってこの世に現れたものに過ぎぬ──という意味のことを言った。「観念の崩壊」「文学の衰弱」の光景は半世紀後の今、われわれの眼前に風潮として瀰漫し、文芸風(もどき)作品は無邪気に跳梁している。

 また、ある現存の作家は現今の文芸ジャーナリズム(現象)について──海面の水のみが騒がしい。海底の潮流には何も変わりはないのに──という意味のことを私に言ったことがある。「低迷だ!」「ベストセラーだ!」と波立っているのは海面の現象に過ぎないのである。それはただひたすら獲物の多量を誇り、少量に落胆する騒々しい日々にうつつを抜かしているに過ぎない。その動機は狩猟であり、衝動は商業論理である。狩猟と商業は消費財としての文学を指向するのである。

 文学とは、個的行為としても社会的行為としても農作に酷似している。決して狩猟ではない。文学とは個的・社会的土壌の一粒の種子がある天然によって芽を吹き育つ、花咲かせ実を結ぶ、その過程の一切である。収穫の多寡のみに目的を置くものなどではない。

 文学は決して消費されない。勝組もなく、負組もない。なぜならば──の答えは述べる必要はない。「ふぉとん」はその答えとして創刊されるのである。
 一言だけするならば、文学は、極論すれば、「作品」ですらない。作品へと至ろうとする、精神の行動そのもののことである。なぜ行動するのか──生きるために。
 いのちの、その行動の軌跡が、作品である。
 軌跡は、どんな意味でも計算不能である。それは消費とも成果とも全く関係を持たぬ、ある「個の絶対」なのである。いのちが、結果でなく、成果でなく、「個」の転形運動の軌跡であることと全く同様である。

「ふぉとん」一号一号への参画者、精神の共同行動者=創出者を心から待望する。海面の騒擾と無縁の、精神の行動。行動は行動を喚び、創出は必ず創出を喚ぶだろう。

「観念の崩壊」「文学の衰弱」という状況の中で、「ふぉとん」は、文学本来の持つ力を信じ、実践しようとするものとして、三年余の刊行を行ってきた。
 今、ここに、文芸誌「ふぉとん」を終刊する理由は、現今の文芸ジャーナリズムの状況、その商業主義化の一層の進行、拡大の中で、われわれの雑誌が、一定の「刻み」を行い得た、という判断からである。(それはたとえばいくつかの連載、連作の創作、評論の完結や、完結への見通しが得られたこと、あるいは、何人かの作家たちが独自の創作世界を発見し、生み出したことに現されている)
 そして、それと同時に、この「刻み」の上に単に立ちつづけて、文学運動を展開することが、次の一歩のために、必ずしも有効ではないだろう、という判断からである。
 文芸誌「ふぉとん」の終刊は、むろん「ふぉとん文学運動」の新しい一歩なのである。
 文学は、「思想」でもなく「哲学」でもなく「政治」でもなく「宗教」でもなく、むろん「心理学」でもない。そうして、文学は、それらのすべてに等しい、ある「全体」としてある、とわれわれは信じている。そして、そのことは、文芸ジャーナリズムの動向などには、一切、無縁のこととして、そうなのである。
 文学が、今、その本来の力によって何ができるのか、そして、われわれは何をすべきなのか。文芸雑誌としての「刻み」という成果を、大きな礎として、われわれは大いなる運動の方向を、引きつづき探求していかなければならない。
 その第一歩として、単行本「ふぉとん叢書}を順次、刊行する予定である。

 なお、一つの重要なことを是非、記しておかなければならない。
 それは、創刊から現在まで、営利と全く離れた雑誌「ふぉとん」の刊行が、多くの匿名の、支援者、賛助者、読者、そして無料報酬の書き手によって、物質的、精神的に支えられたという事実である。それは文字通り「商業主義」にも「名声」にも無縁の、無償の行為、支援であった。
 真に、大きな感謝を以って、その事実をここに記しておきたい。そしてまた、この事実にこそ、われわれは改めて、文学の持つ力を強く強く、感じさせるを得ないのである。

      二〇〇九年七月      
ふぉとん編集部   



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